“1945年8月6日、父は広島県豊田郡の木江署に勤務していた。
「広島の弾薬貯蔵庫が爆発したらしい。」
「アメリカの新型爆弾らしい。」
情報が錯綜していた。
ある者はピンク色した大きな雲を西の空に見たと言う。
父に下された命令は、地元青年団員、医者、看護師を組織し、
広島市に救助に赴け、というものだった。
救助隊と共に広島に向かった。
猛火のため市内に入れず、広島市周辺部で待機した。
熱にアスファルトが溶けた道。
市内から逃れてくる被災者達の容態。
火が衰え、市内に入って経験した状況。
「生き地獄としか表現しようがない。」と父は言った。
その日、江田島から学習旅行で「原爆資料館」へ行った小学生の私に、父は1945年の夏の体験を話してくれた。
苦しそうだった、話したくなさそうだった。
思い出したくなかったに違いない。
しかし、息子に話す義務を感じていたのであろう。 戦後、私が生まれる前、父は内臓を悪くした。
髪が全て抜け落ち、顔が茶黒く2倍位に腫れ上がったという。
当時出回っていた粗末な酒のせいか、と思ったらしい。
「原爆資料館」を訪れた日から2週間後、朝刊の一面に「第三次世界大戦」という活字があった。
「キューバ危機」だった。悪夢にうなされる浅い眠りの日々が続いた。 1987年4月、父は膵臓癌(すいぞうがん)のため69才で逝った。
貧困の中で生まれ育ち、戦中戦後を生き抜き、子供達を育て、
やっとゆとりが出来た頃、亡くなってしまった。 父を誇りに思っている。
深く感謝している、
私に人生を与えてくれたことを。
子供達の世代により良き人生を受け渡したい、と思う。”
— 浜田省吾さんの父・敏太さんの原爆投下朝の体験記 (via onhook)